私は、特別支援学校の病弱・肢体不自由・知的・情緒の部門で約10年近く、また支援級で現在2年目の勤務をしています。その中で、たくさんの子どもたちと出会い、コミュニケーションを交わし、学校生活を過ごしました。
軽快に話をする人もいれば、淡々としている人もいる。明るく関わる人もいれば、暗い人もいる。
しかし、全員に共通していることが一つ。
言葉や行動の一つひとつに想いが込められていて、メッセージ性が強い。
こちらもそれなりの心構えと言葉の選択が必要だと思いながら関わっていました。
子どもたちの言葉を受け止めながらも、みんなが毎日を楽しく過ごせるようにと思いながら時間を共にし、特にコミュニケーションを積み重ねることを大切にしながら関係性を構築しました。
そんな日々を過ごす中で、「支援」とは一体なんだろうと考えるようになりました。
特別支援学校・支援級と「支援」という言葉が入っていますが、その「支援」を子どもたちはどう受け止めているのか、そして我々教員は何をしていくことが最適解なのか、ぜひ一緒に考えていけたらと思います。
※指導要領等書かれているものもありますが、あくまで私個人の捉え方なのでご承知ください。
「支援」の捉え
「支援」の意味
し‐えん〔‐ヱン〕【支援】
[名](スル)力を貸して助けること。
コトバンク(デジタル大辞泉)より引用
まさに現在起きている災害時に、「支援の手が足りていない」「食料や水の支援がほしい」などの使われ方をしています。
「力を貸して助けること」で、「支援」された側はより良い方向へ進んでいくのだと思います。
学校現場での「支援」とは
色々な教員と関わっていると「支援」の捉え方が人によって様々で、あまり深く考えていない人もいるように感じます
その中で一定数このような捉え方をしている教員がいます。
「支援」=いついかなる場面でも助けてあげること
どうしても「支援してあげる」という要素が強く出てしまっているような感覚です。
- ここに困っていそうだからこんな「支援」が必要。
- こんな「支援」をすれば、ここを改善できるかも。
- ここまで目指して「支援」していこう。 etc
ここにはその教員の優しさや思いやり等の気持ちが込められ、教員としてできることを一生懸命日々実践していることなのでしょう。
しかし、そこが一方通行的な視点や関わりになってしまっているように見えるのです。
「支援」を共に考える
私の考える「支援」とは、
「支援」を求める側と共に考え、歩んでいきながら支えていくこと。
「支援」の先に何があるのか子どもたちと共有し、そこから一緒にその景色をより子どもたちが求めている景色にしていくことに「支援」の本質があるのではないでしょうか。
決して一方的な「支援」をして終わりではないのです。
それこそ、特別支援学校や支援級だけでなく小学校のクラスで過ごしている子どもたちも、この考え方で関わる必要性があるのだと常日頃から思っています。
まとめ
あーだこーだと考えを述べてきましたが、このように色々と考えを巡らすことで、子どもたちそれぞれに合った「支援」への道標が見えてくるのかなと。
「支援」をする側も受ける側も、共に同じ方向を見て並走する
一方通行的な視点や関わりではなく
同じ方向を見て並走しながら共に考え
支えていくことが「支援」の本質ではないか。
「支援」とは一体何なのか、改めて考えるきっかけになると幸いです。


コメント